許しについてもう一度

先日「許しには天使が、恨みには悪魔が・・・」で許しの効用と、恨みの悲惨さについて取り上げましたが、
少し違った観点から、許しを取り上げて見たいと思います。
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誰かが何かをして、仕方がないから許すのではない。
自分は彼より高貴な存在だから、許してあげる、のではない。
<赦し>とは、我慢することではない。
自己犠牲ではない。
それは真の<赦し>ではない。
真の<赦し>に犠牲はない。
真の<赦し>とは犠牲どころか、
自分は自由そのものであり、
完全そのものであると歓喜することである。
我慢する理由も存在しないところ
我慢される者も我慢する者も存在しないところ、
それが<赦し>である。
それが解放である。
それがそのままの自由である。
~"それ"は在る ヘルメス・J・シャンブ
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ここでは、許しとは、解放でありそのままの自由であると述べています。
では何からの解放なのか、我慢するものが存在しないとはどういうことか、次のように考えてみればわかりやすいでしょう。
例えば、あなたがこんな許し方を考えたとしたらどうでしょう?
あなたのしたことについて、これとこれは許してあげます。しかしこの点は許すわけにいきません。
これは真の許しと言えるでしょうか?
許せない点を抱えているわけだから、真の許しではないわけですね。
言い換えれば、真の許しとは、100%の解放でなければならない。99%の許しなど許しではないのです。
それから、「これとこれは許してあげます」という表現に、我慢する人が存在してくるわけです。
許すものと、許されるものが存在するとき、それは真の許しではない。そこに本物の解放はないからです。
どんな人と人の関係も残っておらず、真の自由が得られていなければ許しとは言えないのです。
100%解放されてこそ、それが真の許しなのです。
真の<赦し>には、我慢も自己犠牲も存在しません。
100%自由な関係にならなければ、それは真の<赦し>ではないのです。
それでこそ、
『自分は自由そのものであり、
完全そのものであると歓喜することである。』
と言えるのです。
許しには天使が、恨みには悪魔がもれなくついてきます タオに生きる
テーマ : ありのままの自分になるために。
ジャンル : 心と身体


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