「鳥は、飛べると思うから飛ぶのだ」 ベルギリウス(古代ローマの詩人)

この言葉、いつも失敗をするのではと心配で一歩が踏み出せない人には、勇気を与える言葉であるでしょう。
敗北主義でいじけていたのでは仕方ないからです。
しかし、前向き、プラス思考、情熱というものには、「意志の強さ」というのがついて回るように思います。
信念を貫く、一貫して何かをやり遂げた人を世間では尊敬しほめ称えます。
しかし、その対象になっている人達は、本当に一貫して同じ意志を持ち続けたのでしょうか。
それは本人に聞いてみなければわからないことです。
そして、何かの結果がでてから振り返る時、だれでも一貫した意志を持っていたように思えるものです。
あとづけの解釈である可能性もあるのです。
これを逆転して考えると、アファーメーション(肯定的な宣言)をとなえると物事がかなうという発想も生まれてくるのでしょう。
「逆もまた真なり」なのでしょうか。
たしかに何もしないよりは、何らかの影響を与えるかも知れませんが、他の要因が働くせいでそうなるだけかも知れません。

まあ、その因果関係はとりあえず置いておくとしても、「意志」というのはどういうものなのでしょうか。
「意志」とは、自分が「やるべきこと」と考えていることを優先してやり、それ以外のことに惑わされず排除できる能力とでもいったものでしょう。
つまり、そこには前提として「やるべきこと」が存在するのです。
そうなると「意志が強い」とはこういうことかもしれません。
「やるべきこと」をやり遂げたいというモチベーションを、いつまでも維持できる方法を身につけている。
「やるべきこと」は、気分や感情を排除しても優先的にやるべきだ、という考え方と行動習慣を身につけている。
こう考えてくると、この前提になる「やるべきこと」とはどこからでてくるのでしょう、というのが気になります。
「やるべきこと」があらかじめ外部から与えられる会社組織においては、意志の強い人は望ましい社員なのかも知れません。
しかし個人の「やるべきこと」とは、どこからきて、どうやって決まるのでしょうか。
これは、「あなたはなぜその職業を選んだのでしょう」と尋ねたときの答えのようなもので、その人なりの理由を答えるひともいれば、よく解らないけどそうなっていたというひともいるでしょう。
いずれにしても、明確な理由をきいても、どこかに偶然の要素が感じられてきます。
すくなくとも、最初に意志ありきで、「やるべきこと」を決めたというようなことではないのでしょう。
ちょっと話が書きたいと思っていることからずれてきたので方向を変えます。
意志を貫くことは、そのひとがやりたいことであれば大いにやればいいと思います。
ただ、上で述べてきたように、どこかで決めてしまった「やるべきこと」をなにがなんでもやり抜くというのはどんなものかと思うのです。
意志の強さには、副作用があります。
それは「やるべきこと」がいまここでの体験を阻害するということです。
あなたが、いまを生きていて心地よく思っているときに、「やるべきこと」はギャングのように割り込んできてそれを台無しにします。
一期一会の二度と無い出会いも、やるべき時刻があなたを引き離してしまいます。
ここちよい夢見は、意志という目覚ましでむりやり葬り去られるのです。
意志への信仰は、あなたの意志によらない幸運を、そのまま素直に受け入れられなくしてしまいます。
また意志の強さは、新しい方向の可能性を見つけたとしても、その弱々しい説得力では却下され芽を摘まれてしまうのです。

道具や機械は、やるべきことを忠実にやり遂げてくれるほど優秀です。
しかし人間にとっては、意志は必要なのでしょうか。
いいかえれば、くりかえし「やるべきこと」を「わたし」がいいきかせることは、本当に必要なのでしょうか。
意志とは幻想なのかもしれない。
そんなものを持たなくても、あなたは生きていけると考えたことはないでしょうか。
実際、あなたの生きてきた経験から、どれだけ自分の意志が結果を作りあげたと言えるのでしょう。
もちろん、自然はあなたの意志では左右されません。
明日の天気をあなたの意志でコントロールすることはできません。
そして、あなたの意志で成し遂げたと思っていることも、同じかも知れません。
自分の意志でないというなら、「こんなに努力してやり遂げたことを、自分の手柄だと言ってはいけないのか」と言いたくなるでしょう。
もちろんそれはあなたの手柄です。ですが「意志があった故」かどうかはわからないかも知れないと言っているのです。
そして、あなたの意志を忘れないことが成果を生むのなら、あなたはこれからも自分を強い続けなければなりません。
意志を強く持たなくても、「あなたはやるべきことは、やるべきときにやっているのではないですか」と問いかけてみたらどうかと言っているのです。
意志が幻想なら、あなたはいろんな気苦労から開放されますよね。
優先順位、見積もり、締め切りなど、一度見ておけば済むことです。
行為しながら振り返る必要はありません。
それはやってみればわかります。
やっているときは、あなたは自分の意志で行動していると思います。
しかしその日の終わりに結果をみれば、それはあなたの意志、あなたのコントロールがもたらしたものではないとわかるのです。
「意志など幻想だ、気にせずやりたいことをやろう!」
「幻なのだ空の花、そんなものを捉まえようとするな、損得善悪、一気に放り出せ」
幻化空花、不勞把捉、得失是非、一時放卻 『臨済録』
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