至道無難(しいどうぶなん)? 私の悩みの元は?
至道無難・・ 至道(しいどう)は無難なり
唯嫌揀択・・ 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う
纔無憎愛・・ 纔(わずか)に憎愛無くんば
洞然明白・・ 洞然として明白(めいばく)
一般的に悟りを開くということは、大変な修行を伴い苦修錬行があって容易に得られるものではないと云う受け止め方をされるが、仏祖の大道と云うのは何の難きものではないのだ。
唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ。その揀択がいけないのだ。
わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう。
だが、いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である。
今まで妙法といい、如来の真実義は百千万劫に遭い難しなどと云われ、その仏道には深遠な哲理があり、至難な実践がなされなければならないという思い込みがあった。
だが、そんな既成の観念を打ち砕き、何にも難しく考えることはいらないよ、悟りに至るのは実は簡単なことなんだよと一蹴してしまう言葉が「至道無難」である。
禅語に親しむ より
ところで江戸時代初期の禅僧であり、至道無難(しどうぶなん)を名乗った人がいました。
無難は師である愚堂禅師から「人間本来無一物」の公案を授かります。
無難は、この公案に30年間取り組んだ末、47歳の時、無一物を徹底できたと回顧しています。
そしてその時に出家するのですが、そこで愚堂から授けられた号が至道無難であったということです。
その無難の説いた言葉に次のようなものがあります。
凡夫めら あまりに物な欲しがりぞ
我が身さえ我が物ならぬぞよ
殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて
何もなき時 人の師となれ
身の業の尽き果てぬならば何も無し
仮に仏というばかりなり
何もなき心を常に守る人は
身の災いは消えはつるなり
至道無難 より
無難は「無一物」を徹底した、言い換えれば人間にとって悩みの根源が欲であることを見抜いていました。
「殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて」でいっているのは、私(エゴ)を無くせということです。
私たちは、いつも「私(エゴ)がやったこと」が自分の生きた証しだと思っています。
自分の力でやり遂げてこそ生きがいを感じるのだ。
自分の選択こそが、私の存在する意義だと思っています。
確かに、結果を振り返った場合には、そのように見えることもあるでしょう。
しかし「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源でもあるのです。
結果的にあなたが人の役に立てることや、為し遂げたことを振り返るのはいいとしても、行動しているときには「私」がやっているのだと思わない方がいいのです。
一度「私(エゴ)がやったこと」とは何かを振り返って見るといいでしょう。
私がやったと思っていても、実は周りの人達に支えられて初めて出来ていることに気づいているでしょうか。
今日一日を振り返って見て、どれだけ本当に「私の力」でやり遂げたことが見つかるでしょうか。
このところ話題は「iPad」ですが、あなたが発売初日に何時間も並んで苦労した末でiPadを手に入れたとします。
やっと苦労して私は「iPad」を手に入れたといいます。
これこそ私の行為だと思うのです。
しかし「iPad」は、あなたが作ったわけではありません。
またメーカーが「iPad」を作り出すためには、それが生まれるだけの時代の背景が必要でした。
そしてあなたが「iPad」を欲しいと思ったこと自体、いろんな情報に影響を受けて思ったことです。
このように見たとき、私の意志など、どれほどかかわっているのでしょうか?

なにも、このような豊かな時代に生きていて、その恩恵にあずかるなということをいっているわけではありません。
別に私は禅僧になるつもりはないから関係ないよ、と思わずに考えてみて下さい。
時代がどうであろうと、やはり「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源なのです。
「私」を捨てて、我が身を殺したときに悩みのない世界が開けるということです。
あなたは「私」を捨てられた分だけ悩みから解放されるのです。
・「私」が結果を左右できると信じていることが、あなたをやきもきさせるのです。
・「私」が大事にしているものが、なくしてしまうことへのの恐れを作ります。
・「私」の主義を守るために、反対する人間を攻撃したくなるのです。
・「私」の会社を悪く言われると腹が立ち、その会社が私を大事にしてくれないことでまた悩むのです。
・「私」の意見を批判されるのを恐れ、その一方で意見を主張できない自分を責めるのです。
・「私」が嫌われることを恐れて、自分の正直な行動を差し控えます。
ちょっとしたことでもやって大丈夫だろうかと気になるし、やらずじまいに終わったら、それでまた自分を責めたくなるのです。
・「私」の思ったことを気軽にやると失敗するのではないかと恐れ、軽くやってのける人をみると人生の辛さを知らないんだと批判して自分を正当化したくなります。
・「私」は人に与えているばかりだと思い込み、人から受け取っていることがなかなか見えてきません。
・「私」の生き方を変えるのが怖いので、これしかないとしがみつきます。
もっとも「その煩わしさに生きがいがあるんだ」と仰るなら、それもまた生き方ですし、それはそれで正しいことなのでしょうが。
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