夢について
なんとも期待したより、自分の側の働きかけを感じない受動的な雰囲気を感じてしまいました。
夢のないというか、夢を持てない世相を示しているのでしょうか。
これと並んで、「運勢」とか「運がよくなる」といった話題が人気があるようですが、どうしてこんなに運頼みの世の中になってしまったのだろうと考えてしまいます。
これも自分の力ではどうにもならない不安な社会情勢を反映しているのでしょうか。
ところでこれから書こうとしているのは、寝ている間に見る夢の話ではなくて、未来に対して自分の思い描いている「夢」の話です。
未来の可能性を狭めないためには、夢を思い描くのに出来るだけ制限を設けない方がいいでしょう。
こんなことは無理だと制限する自分を少し黙らせて、出来るだけ自由に自分の想像をふくらませることです。
どうせ夢を描くなら中途半端に終わらせることはないのですから。
しかしその一方で、夢を絵に描いた餅に終わらせないためには、それを実現するために自分が何をすればいいのかを真剣に考える必要があるわけです。
そして、この現実に対する姿勢、立ちはだかる困難にどう立ち向かうかは、先程の夢を思い描くときとは全く異なるものにならざるを得ません。
自由に想像を遊ばせるのではなく、今度は批判的な見方や現実的な対応が必要になってくるからです。

ですから夢を描くことと、その実現に向けて動くことは、同じライン上で考えていてはうまくいかない様な気がします。
その意味では、子どもに対して「大きな夢を持ちなさい。そして困難には負けずに頑張りなさい。」というように2つのことを同時に伝えることは注意しなければなりません。
子どもにとっては、どちらも経験のないことなのですから、2つを一緒に言われるとどうしても同じ線上でこれらを処理しようとしてしまうからです。
「夢も頑張って持つよ。諦めないでがんばるよ。」とけなげにも欲張って頑張ろうとすると、実際には何をすればいいのかがわからなくなる可能性があります。
夢を持とうとすることは自由に無制限に発想することですが、現実の困難に負けずに頑張る方は、時には自分のやりたいことも諦めなければならないという逆の発想も必要になるわけです。
どちらも充分に経験のない子どもからすれば、2つを満たそうとすればどちらかを犠牲にしなければなりません。
子ども時代であれば、無理に現実的なあきらめを持つよりは、夢を大きくふくらませる方がいいのかもしれません。
あまり早くから、実現可能性に目を向けてしまえば、現実的になりすぎて「親を見ればボクの将来知れたもの」と言う発想になりかねないのですから。
親の期待ばかりふくらませて、子どもに親の思いが伝わらないと嘆く前に、夢を描く過程と実現の過程には違いが在ることをきちんと教えているのか、振り返って見る必要があるように思います。
ところで夢を描いて、いざそれを実現しようとするなら、そこから先は現実的に自分が動く必要があります。
自分が動いて行く中で、その過程として夢に向かって少しずつ進展があるのが本来のあり方でしょう。
そうなれば、当然その中では自分が夢のために代償を払っているという実感が伴うはずです。

ところが、夢を持つことばかり熱心で、膨大な夢のリストを作り上げながら、何ひとつ実現しないという人もいるものです。
それは「夢を持てばそれはいつかかなうのだ」という思い込みだけがあって、実際の自分はちっとも変化しようとしていないということです。
ただ夢のリストを作って、毎日眺めていた所で、何も変化するわけはありません。
夢を思い描く過程と、実際に自分が働きかける過程とは別のものであることがイメージできていないからそういうことが起きるのです。
自分が夢の中の1つを実現しようと思うのなら、それは1つを選択して、他のものは捨てるという選択を行わなければなりません。あれもこれも夢を叶えたいと思うのは単なる願望であって、実現しようという意欲は見えてきません。
また、実現に向けて動く中では、ある程度目標以外のものを犠牲にして、目標に向けてエネルギーを集中しようという自分の変化を感じるはずです。
選んだものを優先し、他のものを犠牲にするという自分の関わりや、代償を払っているという実感が伴うはずなのです。
そのような変化が何もないとすれば、それは「夢」を夢見ていることでしかありません。
そういう人は、実現しない方が夢のリストは綺麗なまま取っておけますから、それを大事に眺めて満足していることになってしまうのです。
夢ばかり追って夢のリストマニアになってしまわないことですね。
ところで、夢実現ではなく夢の話の全般を書いているわけですから、ここでがらっと視点を変えて、「夢なんて本当に必要なものか」ということを考えて見たいと思います。
夢を実現するというのは、「ある時点で決めた目標を期待通りに実現する」ということに他なりません。
しかし期待した通りにものごとが起こることは、そんなに素晴らしいことなのでしょうか。
極端な例で考えるなら、未来を予測する方法があって、自分の望みが叶うかどうかが予めわかったとしたら、それがどれほどありがたいものなのかということです。
それが当たり前になってしまえば、たとえばレストランでオーダーしたメニューが期待通りに出てくるのと変わらないことになってしまうわけです。
いや、どうなるかわからないことが期待通りに叶うからありがたいのだと言われるでしょう。
確かにそうなのですが、実現することに価値があるのなら、別に期待通りでなくとも実現さえすればいいという考え方も出来るでしょう。
あるいは、夢を叶えるとは、将来を先取りしようとすることになりますが、過去の時点で、自分の将来を決めてしまうことが絶対的にいいことだとは言えないのではないでしょうか。
自分の夢というのも当然変化していくものです。
変化に合わせて方向を切り替えることも同じように大事なことでしょう。
あまり夢にとらわれすぎない方がいい面もあるわけですし、これを実現することに命をかけるとまで思うことには、それだけリスクが伴うということを考えておかなければなりません。
うまくいけばいいのですが、「他の事をすべて犠牲にしていて、突然不可抗力で実現が不可能になったらどうなるだろう」ということも考えた方がいいわけです。

別にこんなことを言ったからといって、夢を実現しようと思っている人に水を差すようなことを言いたいわけではありません。
たしかに、どうなるかわからないことにチャレンジして実現することの喜びは、他では変えられない喜びがあることも確かです。
分散した小さな実現の集まりと、1つの大きな夢の実現、どちらに重点を置くかという選択もあるでしょう。
また、自分の人生全体のバランスを考えて、どこまで力を注ぐかという選択でもあるのです。
それからもうひとつ考えておきたいのは、自分が望んだことだけでなく、その過程では副次的に起きてくること、実現していくことがあるはずです。
あまり特定の夢にとらわれすぎることは、そのような過程を見る余裕を無くすことにもつながります。
とりたてて、これといった社会的に価値のあることを為し遂げることはなかったと思っていても、他の人に与えた影響は、もしかしたらあなたのあずかり知らぬところで、とても価値のあることを為し遂げているかもしれません。
夢の実現とか、成功とかいった言葉にあまり巻き込まれないようにすることも、ひとつの生き方です。
それは、その人の経験や年齢にもかかわることでしょう。
若いうちから夢を捨てたり、挑戦を避けるのはもったいないことのように思います。
一方でいままでそこそこやり遂げたことがあるという人なら、引退して別のことに興味を向けることも出来るでしょう。
まだいろいろ書きたいこともありますが、拡散しすぎてまとまりがなくなりそうなのでこの辺にしておきます。
最後に、どこか「運だのみの夢実現」に傾いているような気がする昨今の風潮ですが(気のせいであればいいのですが)、そんなことに惑わされて自分を見誤らないようにしたいものだと、ちょっと気にしてみたりするのです。
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