以前「
自然のままで十分?」で描いた水泳の達人の話があります。
これは「荘子」の中にある話で、登場する人物は孔子と弟子と水泳の達人です。
凄い振動音で流れ落ちる雄大な滝、魚や亀でも近づけないだろうというその滝へ飛び込む達人。
孔子は、彼は自殺したのだと思い込み、弟子と共に彼を探しに行きます。
滝近くの下流の川に近づいてみると、平気な顔で泳いでいるその達人を見つけ、孔子は驚いて「どうして滝に傷つけられないなどということができるのですか」と尋ねる。

達人は答えます。
単に水の本質に従うだけです。
水の力は決して侮れないが、私はもう何年も知っている友人として水と付き合っているのです。
水がどうしたいのかを知っていますから、それに逆らおうとか、私の意志でそれを操ろうなどと考えないで身を任せていればいいのです。
水の流が私を深いところへつれて行く時には、それに逆らわずに行くところまで潜っていきます。
いつまでも落ち続けるわけではないのです。
そのうち上昇する流れの中にいる自分を発見するでしょう。
上昇する気配を感じたら、これまた逆らうことなく自分をその流れに任せて上昇するのです。
ところが、私たちがやってしまいがちなのは、水の力に引きずられて深いところに連れて行かれそうになると、これは大変だと思ってむやみに抵抗し、なにか出来ることはないかとでたらめにもがいてしまいます。
そのままどこまでも、深く深く落ちて行くと思ってしまうのです。
一方で、自分が上昇する動きに乗ったと感じ始めると、「こんなにうまくいくはずはない」と思い始めて、よせばいいのに疑いの心を持ってそれを妨げるような余計なことを始めてしまいます。
どちらにしても、流れに逆らおうとすれば、溺れてしまうことになるのです。
荘子がこの話で、タオイズムについて語ろうとしているのは、流れに精通してそれに任せられるマスターになることの勧めです。
タオイズムは、何でもかんでも受身で身を任せようと言っているわけではありません。
滝の勢いで引きずり込まれるときには逆らわないでいるというように、人間がいつ自然に従えばいいのかを見極められるように、人生を見つめることです。
流れに逆らわないでいる時と、乗っかっていけばいい時を見分けられるように、普段から感性を磨くことです。
感性を磨くというのは、新しい何かを取り入れることではなく、既に自分の中にあるけれど、それが出てくるのを妨げているものを使いこなせるようになるということです。

私たちが意識していることというのは、ごく一部です。
いわゆる無意識と呼ばれているものは、私たちの中にある隠された感情や、経験から来る衝動などがうごめいている状態なのでしょう。
夢の中では、その一部の抑制が取り除かれるので、目覚めているときには意識しないような自分の衝動がなにかに象徴されて現れてきます。
そして、夢よりももっと奥には、さらに隠された感情や衝動が存在するのでしょう。
それらが意識できないのは、社会の中で生きる存在として、抑制なしにそれを表現しては問題があると考えたり、無意識に規制をかけているからです。
しかし、それらのうち問題があると意識できているのはごく一部に過ぎず、その多くはどうしてそうなったのか自分でも覚えていないような、矯正されたり教育を叩き込まれた結果なのです。
ですが、問題は抑制された衝動は、すべて社会に適応しないようなものではないということです。
ある人は、そんな抑制を持たないし、それを自由に表現している。
しかし、自分にとっては、それは怖くてできないことであったり、それは正しくない事だと思っていたり、あるいは、理由はわからないけれどやらないほうがいいのだと思っていることだったりするのです。
それらの中には、抑制せずに表に引き出して自分でもやってみるなら、より自分を満足させ充実感をもたらしてくれるものがあるはずなのです。
それは、素直に表現できる機会を与えられれば、自分に生きている実感をもたらしてくれますが、今まで通り抑制を続けるなら、そこにくすぶったままでいつか表に出たいと抵抗を続け、その結果なにか充実感が持てないと感じさせてしまうのです。
表に出られない衝動が潜んでいる時、私たちはそれを言葉で表現できない、よくわからない違和感といったかたちで感じるのです。
このような何か本物でない感じを持つ状態は、私たちに自由がなく、なにか罠にはまってしまったような感覚をもたらします。
理屈の上では、今時分は正しいことをやっているはずだと言い聞かせますが、でもそこには本当にやりたいことをやっていないような感触があるのです。
違和感を感じる時は、それが何かを振り返って、解放されたがっている自分を発見しましょう。
それらはまさに自然に任せて自分を動かせなくなってしまう理由の一つだといえます。

自然の一部である衝動を、隠された領域に追いやってしまうから、感性がどんどん鈍くなってしまうのです。
滝の強大な水流に飲み込まれるように、自然は私たちのせこい思惑などあざ笑うかのような仕打ちをしてくることもあります。
それも自然の流れだと受け入れるつもりがなければ、自然の驚異にただ立ちすくむしかなくなるのです。
「災難に遭う時は遭うがよろしかろう」と受け入れるなら、それに続く上昇する水の流れに乗る機会も巡ってくるのです。
抵抗出来ないときには、身をまかせようという選択をできるようになることです。
タオイズムの抵抗しない生き方とは、「ただ自然に従っていれば、いつでも自分の望むようにことが運ぶようになる」と考えることではないのです。
自分も自然の一部として、必ずしも自分個人にとっては利益をもたらさない流れに巻き込まれることもあることを知っておくこと。
そこから抜けだそうと抵抗すべき時か、そうではない時なのかを見分けられるように、普段から自分の今までの経験を生かして感性を磨いておくことです。
それには、自分の隠されてしまった衝動とも仲良くしておくことです。
理屈ではいまのやり方が正しいと思うけれど、何かそうではいことを告げている自分を感じたら、時にはそれに賭けてみることも必要かもしれません。
それがうまくいってもいかなくても、そんな自分を断罪するようなことをしないこと。
評価の土俵に晒してしまわないで、そのままでうまく付き合っていくことです。
そうすれば、行き詰まった時も自然に返る道を忘れずにいることができます。
うまくいかない時期にも自然の一部であることから離れないで、上昇する時期を待つのです。
逆らっても無駄なあがきにしかならないことには、抵抗せずにじっとしていましょう。
期待以上の幸運を感じる時も、怖がらずにその中の一部としてとどまりましょう。
わけのわからない人には、相手をどうにかしようと思わずに、自分のペースを乱されないようにかかわりを持たないことです。
自分のコントロール出来ないことが思ったように運ばないときは、自分では何も出来ないのですから、そんなことにエネルギーを使わずに放っておくことです。
あなたがやきもきしたところで、何も変わりません。
そんなことに神経を使わずにとっておけば、動ける時が来たときに、一気に動き出すためのエネルギーを取り出せるようになります。
そして、上昇する流れに乗ったなら、躊躇しないで自分もその一部になって動くことです。
怠惰とかなまけものという言葉がありますが、本来人間はこれらの言葉で表されるような状態にはならないものではないかと思います。
そのように見える状態には、必ずそれなりの理由があるのです。
口ではやると言っておきながら、そして本人もやるつもりだと意識はしているけれども、体が言うことを聞かないといった状態があります。
それは、たとえば心の奥では、それをやらないほうがいいと思う理由を持っているのかもしれません。
世間的な理由からは、それをやることが望ましいとされ、自分でも認めていながらも、その圧力に抵抗して主張している自分がいるのです。
あるいは、気力はあるのに動けないときは、身体が拒否しているのかもしれません。
疲れていたり、どこか身体に不具合が生じているのかもしれません。
そんな時もあるものだと認めて、いまはおとなしくするべき時だと思えるなら、罪悪感を持たずに堂々と怠けものになったほうがいいのです。
何も出来ないのに、出来ない自分を責めるのは何も生み出さないし、余計に復活できなくしてしまいます。
滝の勢いのある流れには逆らえません、浮き上がるときに動けるように身を任せてみるのです。
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