起きた出来事によって動揺するのは
たとえば、このように行動すれば、人から受け入れられ、承認され、喜ばれるはずだと期待するとします。
このとおりにいって、明日はみんなから歓迎され喜んでいる自分を想像します。
しかし、一方ではもし自分の予想通りにならなかったらどうしよう、そんな事になったら大変なことだと心配し怯えてもいるのです。
そして、その本番がやって来る。
いくら自分が綿密に計算して行動しても、計算通りにはいきません。
なぜなら、全体の出来事は、あなたが関与し直接変えられる部分というのは限られているからです。
それ以外の部分は、無数の要因が絡んでくる相互依存の世界だからです。
たとえば、あの人なら必ず自分の考えた通りに反応してくれるはずだと、あなたは期待しています。
しかし、その人が期待に応えてくれる可能性が高いとしても、たまたま他のことに気を奪われていて、あなたの行動をよく見ている余裕がないかもしれません。
あるいは、あなたとは全然関係ない理由から機嫌が悪い時や、体調の良くないときに出くわすかもしれません。
たとえあなたとは関係の無い理由で、あなたの期待が裏切られたとしても、あなたはその事態に動揺してしまいます。
いくら頭ではなにか理由があったんだろうと、自分に言い聞かせようとしても、なかなか動揺は静まりません。
いや、むしろやっぱり自分に問題があってこのような事態が起きてしまったんだと考えようとする自分がいて、それが引き金になって落ち込んでしまう自分が強化されていくことになるのです。

しかしだからといって、こんなことで動揺しないように、自分をもっと鍛えようと思う人がいますが、それは考えものです。
ストレスの原因に対して耐えられるような強い自分を作るんだと言って、ストレスに鈍感になってしまうような訓練をしたりするのは見当違いのやり方ですし、また自分を歪めてしまう可能性があります。
見かけ上動揺しない人間を装ってみても、それによって他の感情まで鈍磨させてしまうかもしれません。
問題の本質を探らなければなりません。
それは、出来事に対して、いちいち自分の存在が脅かされるような反応をしてしまう自分とは、誰なのか、それがどこから来ているのかを知っておくことです。
そして、今の自分はこれこそが自分だと同一視している勘違いに気づくことです。
つまり、いま動揺してしまう自分こそが自分の全てだと思うのではなく、そのような反応をする自分を前面に置いてしまった結果いまのような状態にあるということを認識すべきなのです。
かつて幼い子供の頃は、親にかまってもらえなければ成長できず、死んでしまうかもしれない状況にありました。
そのようなときには、まわりの人がどう動くかで自分が生き延びられるかどうかが決まってしまうという状況にあったわけで、全面的に人に依存してしまうのも仕方が無いことです。
その中で、まわりの人の反応がどれだけ自分の存在を左右するかを思い知らされていますから、ちょっとしたまわりの変化に過敏に反応する自分も作られて行きます。
しかし、やがて思春期になり、親の言いなりになることに反発を感じ始めると、親に依存することがうっとうしいものに映るようになり、自分の思い通りに出来ればどんなにいいだろうと自立することを考えるようになってきます。
自分の考えこそが正しく、なんでまわりの大人は人の目を気にして生きているのだろうと感じるかもしれません。
ところが、やがて社会に出てみると、不合理に思えても影響力のある人間に逆らったり、多数派の意見に反発することが自分の利益にならない場合があることを知るようになると、利益のためには自分の考えを犠牲にすることも必要なんだと考え始めます。
唯我独尊ではいられないと思いだすと、人によっては、一気に反転してそれならどんどん利益のあるやり方を取り入れたほうが得だと考えてしまうかもしれません。
たしかに、不必要に社会に反発していないで、適度に合わせることが有効なことも多くあるでしょう。
問題は、そのような適応の仕方が過剰になってしまうことです。
また、いつのまにかそのような作られた適応の仕方であったことを忘れて、まわりに過剰に反応してしまう自分こそが、本物の自分だと同一視してしまう危険性があるということです。
まわりの出来事しだいで、すぐに憂鬱になったり、動揺して冷静に考えることができなくなったりする傾向が強いと思うなら、そのような同一視が起きていると考えたほうがいいでしょう。
いま何かの出来事で、苦しめられ危機に陥っていると感じるなら、それは自分自身と人生の出来事を同一視しているからです。
自分の人生がものごとによって決定づけられると信じているから、自分でコントロール出来ない不測の事態が起きるたびに動揺し、自分までコントロールを失うのではないかと不安になっているのです。

しかし、そのような自分とは、今まで生きてきた中で作られてきた二次的な適応した自分であって、それが自分そのものではないと気がつけば、過剰な反応をしてしまう自分も徐々に鳴りを潜めるようになってきます。
まわりがどのように変化しようと、それによって自分が必要以外の反応をする必要は無いと思い出すことです。
いままで、このような状況では不安になるものと思い込んでいただけで、それに重要な根拠など無かったことを思い出せばいいのです。
適応した自分とは、仮の自分であり、自分の本質ではないことを見破れば、出来事に不当に振り回される自分をコントロール出来る様になってきます。
ちょっとした非難めいた気配に、過剰に脅えたり動揺する自分がいるのを、一歩離れた所から観察できる自分が存在することに気づけばいいのです。
今までのように、出来事に左右されるのは仕方がないことだと諦めてしまう必要はありません。
ただ大人になってから身につけたことよりも、子どもの頃の強烈な印象は強く残ってしまうものですから、一時的には以前の瞬間的な反応の仕方が現れることは仕方のないことです。
何事にも動揺しないような修行僧や仙人になる必要はありません。
その瞬間的な反応の後で、本来の自分を取り戻す様になればいいだけのことです。
それと、もう一つこれに抵抗するものがあるとすれば、それはいままで築きあげてきたものを壊したくないと思って、守ろうとしてしまうことです。
たとえば、今までのやり方で現在の仲間を集めてきた、その人たちとの関係を崩すようなことはしたくないといった思いです。
あるいは、今までの考え方が間違っていたなどと思いたくないから、やり方を変える気はないとこだわってしまうこともあります。
築きあげてきたもの、いま手に持っているものを手放したくないという気持ちはわかりますが、手を離さないと別なものを握ることは出来ないと言うことも真理です。
もうこれ以上、苦しい思いをしたく無いと思うのなら、こだわりを捨てて手放すことを考えて見てはいかがでしょうか。
最初に書いた事を振り返って見て下さい。
明日のことを心配して不安に脅え、思った通りに出来事が進まないことに必要以上に悩んだり、後悔することに時間を費やしてしまうのです。
これは誰でもあること、仕方のないことと言い聞かせてしまわないで、不要なお荷物は降ろしてしまう選択があると考えるのです。

有りもしないもの、持っていないものを探そうというのではありません。
もともと持っているものを、おおいを取り払ってもっと楽しもうではないかと言っているわけです。
不要な苦しさを自分で作りだしてまで持っている必要はありません。
確かに目の前にあるものの方が確実と思いたくもなるし、それを手放すのは不安なものですが、一度試して見れば別の世界があったことを思い出します。
いまでも不安に脅える時ばかり有るわけではないでしょう。
そんなことは忘れて夢中になっている自分を発見することがあるでしょう。
それこそ、まわりに振り回されることのない自分が存在することを証明しているではないですか。
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