『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』 法然この法然の言葉は、「一つのものを選ぶとは、他のものを捨てるという選択なのだ」と言っているのです。
何かを欲しいと思ったとき、両方を同時に所有するわけにはいかないということもよくあります。
たとえば、最近はスマートフォンが普及してきて、従来の携帯電話をやめてスマートフォンに変更するという方も多いようです。
番号をいくつも持つ人ならわかりませんが、普通は使い慣れたケータイをやめて、スマホに切り替えるわけです。
新しいものを手に入れるために、古いものを捨てる選択をします。
「難しそうだなあ、使いこなせるだろうか?」と思う人も入れば、「電話さえできればいいんだ。そんなもの絶対に使わない」という人もいるでしょう。
それは物だけに限りません。
自分が、どの会社で働くか、どんな集団に属するかといったことや、あるいは自分の主義主張や宗教といったもの、私の仲間、私の友達、私の家族といったことも、また自分の所有物です。
私の国、私の好きなチーム、私の政党、私の宗教、私の出身地、私の住んでいる街、私の家、私の家族、私の兄弟、私の子供、私の好きな言葉、私の好きな本、作家、「私とはこういう人です」という訴え、などなど私の所有するものは、今の私を作り上げています。
それらは、私が私である証明でもあるわけです。

「それらがないと、私とは誰だかわからない。」
「それを手放したら、今の自分がなくなってしまう。」
そんな無意識のおそれから、「私の○○」を手放すのは大変なことです。
実は「私とはなにものでもなかった」「私は無です」と考えることは恐ろしいのです。
ですから、何かを手放さねばならないと思うと、すかさず代わりになる「私」を用意しようとします。
空になってしまうのは怖いので、いつも何かにしがみつき、執着が生まれます。
もともとは、私が所有しようと能動的だったのかもしれません。
しかし、一旦私のものになったあとは、それを手放すことは、私を失うことにつながるので容易ではなくなります。
所有物がなくなることが怖くなってしまったとき、私はそれの所有者でもあるけれど、それに所有される存在になって依存が始まっているのです。
「私がいなければこの子はどうなってしまうかわからない。」
「この人は私がいないとやっていけない。」
一見、私は保護者の立場のようですが、その相手がいないと私が成り立たないなら、私はまた所有される存在になっています。
相手はあなたに依存しているかもしれないし(あなたはおそらくそう思っています)、そうでないかもしれないけれど、一方で相手がいなくては困るあなたも相手に依存しているのです。
さて問題は、あなたが全く新しいものを手に入れたくなる時です。
あなたは何らかの形で、いま持っている何かを手放す選択が必要になってきます。
はっきり意識している場合もありますが、あなたが依存し執着しているものは、手放すことに対して抵抗を示します。
一時的にせよ、あなたの存在を成り立たせているものを手放すのは不安になります。
うまく入れ替えができると確信できないと、新しいものに移行するのが怖くなります。
「今のままで十分だから、そんな怪しげなものには、手を出さないほうがいい」という声が聞こえてきます。
しかし、もともと自分は何ももたない存在だったことを認めるなら、全く違った見方で、やってくるものを受け入れるのではないでしょうか。
「私はいろいろ持っているようでも、そもそも無でしかないのだ」と受け入れることができるでしょうか。
そうなれば、「取捨の義」の「捨」は容易になるのです。
もともと持っていなかったと思えば、捨てるのに抵抗はありません。

「そんなことはとても無理」と感じるでしょうか。
確かに簡単なことではありません。
しかし、今やっている「取捨」の取引もまた、非常に高度で難しい可能性が高いのです。
あなたのしがみついている度合い、手放すことへの恐れが強いほど、手放すことへの苦痛は大きく、身を引き裂かれるものになってしまいます。
うまく代わりのものを用意して、空白の期間を作らないようにしなければなりません。
手放すものへの未練を断ち切るだけの、新しい存在へのメリットで自分を納得させないとなりません。
そんな難しい自転車操業をやることを考えるなら、もともと自分は何も所有していないのだと認めてしまう方が楽ではないでしょうか。
それには、普段から自分の依存に気づくようにしておくことです。
私の一部分だからと思い込んでいるものは、手放せません。
自分が依存し、それがないと私がいなくなってしまうと感じている、その執着に気がつき認められることが、まずは必要になるのです。
しかしこれは一時的には苦痛のように見えても、手放すことができたときの、あなたの開放を考えるなら、十分に投資すべき試みです。
「あれもこれも捨てがたい」と思っているわたしは、それ自体が苦痛のコレクションなのです。
しかし「失うのは嫌だ、私はそれが悲しい」という思いは、苦痛ではあっても、実際にはそれを持ち続けようとしてしまう場合が多いのです。
つまり、手放すことの恐れを考えれば、今のままの苦痛を続ける方がまだいいと考えてしまうのです。
「せっかく使い慣れてきたのに、新しい機種をまた一から覚えたくないよ。なんのメリットがあるの?」
「昔からそうやってきたんだ。そんなうまい話には騙されないよ。何か怪しいことがあるに決まっている。」
「なんて恩知らずなことを言うの!私がいないとあなた一人ではやっていけないって言ってるじゃない。」
執着することも、ときには楽しいと感じるのかもしれません。
しかし、苦痛のコレクションでもあるのです。
これ以上コレクションを増やしたら、耐えられなくなると感じたら、根本的に考え直す時が来ているのかもしれません。
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