
匿名の質問者が尋ねました:
どうも、あなたのアドバイスを尋ねたいです。 私は人々がどのように私を裁くかについて、非常に心配します、時々、それは非常に重荷になります。 私は、人々の前でばかに見えるのがとても怖いです。 他の人が言う何でも本当でありえて、それがそのとおりだったり(私の心によれば)最悪のケースであることもあり得るので、私は判断を怖がります。 私は空虚(emptiness )について本を読んで、少しだけ仏教を勉強しました。 それについて考えるたびに、私はそれほど(他人の言葉に)係ってしまうことはよくないことだと思います。 しかし、時々、それはとても強い感覚です。 助けてもらえますか? ありがとう。
buddhajourneyは答えました:
その人々が言っているものを私に見せてくれますか? その判断や言葉を見せることが出来ますか? 物理的にそれを私の手のひらにのせて見せてください。 できませんよね、違いますか? 言葉は空砲のようなものです-それらはあなたを殺すことができません、しかし、あなたが無防備であるならば、それらはあなたを傷つけることができます。 我々の保護された心は、防弾チョッキのようです。 弾丸が我々の体を貫通するのを止めるためにあります。 同様に、我々は、否定的な言葉や行動が心を貫通するのを止めるように、言葉の防弾チョッキになるよう心を鍛えることができます。
私があなたを紫の牛と呼んだとしたら、その言葉があなたを実際に紫の牛にしてしまうでしょうか? あるいは、あなたがとても背が高いので、私があなたを巨大な木とか何とかと呼んだとしたら、あなたの身体は、木でできた巨人になりますか? そんなことは決してありませんね。
まだ悟っていない存在としては、我々は自分とはマインドであり、そして、マインドこそが我々であると仮定します、しかし、実際には、我々のマインドは我々とは別々のものです、しかし、我々は絶えずそれに触れ、それを聞いているので、考えることはすべてが真実であるという結論に至ってしまうのです。 我々はなぜ苦しむのでしょうか? 我々のマインドはこれやそれは悪い状況である、だから、そのことで、落ち込んで、ひどく悲しみ、心配しなければならないと感じるべきだとマインドが告げます、その結果、我々は苦しむことになるのです。
本当に幸せな人々は、それら間違った判断によって、状況や人生までがそれを引き継ぐことを許さないので幸せなままいられます。 我々が混沌とした世界の中でも、美しさを見つけることができないならば、我々に残されたすべては苦しむことばかりになるのです。
それは大きな瞑想の練習課題です-ものごとの真実について瞑想しなさい。 あなたが人々があなたについて言っていることを「考えて」しまうなら、座って、それらのことばについて瞑想しなさい。 それらの言葉の真実と間違いについて瞑想して、それらの偽りの門を突破してください。 すべてのことについて、そのように取り組み始めるなら、我々は非常により幸せで温和な人々になれるでしょう。
微笑んで、よくなってください!
Anonymous asked:
Hi, I'd like to ask ur advice. I'm very concerned about how people judge me, sometimes it becomes a huge weight. I'm so afraid of looking stupid in front of people. I'm terrified of judgement cause anything other people say could be true, and in the worst case it is (according to my mind). I read about emptiness and studied a bit of buddhism. Every time I think about it I understand that it is not good to be so concerned. But sometimes it is a feeling so strong. Could u please help me? Thank u
buddhajourney answered:
Show me what other people are saying? Show me the judgments or words? I want you to physically put it in my hand. You can't, right? Words are like blank bullets - they can't kill you, but they can hurt you if you're unprotected. Our protected mind is like a bullet-proof vest. It's there to stop the bullet from penetrating our body. Likewise, we train our mind to be word-proof vests to stop negative words and actions from penetrating our mind.
If I called you a purple cow, does that actually make you a purple cow? Or if I called you a giant tree or something because you're so tall, are you physically a giant made out of a tree? Absolutely not.
As unenlightened beings, we assume that we are our minds and our minds are us, but in reality our mind is separate from us, but because it's attached to us and we constantly listen to it, we come to the conclusion that everything we think is true. Why do we suffer? Because our mind tells us that this or that is a bad situation and that we should feel bad, depressed, sad, anxious, etc. about it and it causes us to suffer.
Truly happy people are happy because they don't allow their false judgments to take over situations and their lives. If we can't see the beauty in a chaotic world, then all we have left is suffering.
That is a major meditation practice - to meditate on the trueness of things. If you "think" people are saying things about you, sit down and meditate on those words. Meditate on the truthness and faleness of those words and break through their untrue gates. When we can start doing that for everything, we become much happier and peaceful people.
Smile and be well!
via http://silent-mindfulness.tumblr.com/
私たちは、他人の言葉に傷ついたことを、よく嘆いたり誰かに訴えたくなります。
そして一時の憂さ晴らしは、多少は私たちを落ち着かせるかもしれません。
しかし、原因をその誰かにしてしまい、挙句の果ては、「あの忌々しい人さえいなくなれば、私は平和に暮らせるようになるのだ。それで解決できるのだ。」と結論づけようとしてしまいます。
しかし、本当は、お分かりかと思いますが、あなたの中にある、それらの言葉に反応する自分がいることを解決しない限り、問題はなくなりません。
話は変わりますが、胃酸の症状を抑える薬といえば、従来はすでに出すぎてしまった胃酸を中和することで症状を抑えるというものがほとんどでした。しかし近年になってH2ブロッカーというタイプの胃薬が登場してきました。こちらの薬は、胃酸の中和ではなく、胃酸の発生そのものを抑えることで、症状を緩和するのが狙いです。ブロッカーという名前のように、胃酸の発生源である胃酸の分泌を促進するヒスタミンという物質が受容体と結びつく前に、先回りしてこの受容体に別の物質がはまりこんで蓋をしてしまうというものです。これによって胃酸の分泌そのものを抑制するのです。
もちろんどちらにしても、薬で症状を抑えるのは対症療法であって、根本的な治療のためには他の要因も考えて対処しなければなりません。ですがそれはおいておいて、ここではこの2種類の薬になぞらえて今回の問題を考えてみましょう。
言葉で傷ついた苦しさを紛らわすために、誰かに悩みを打ち明け、話を聞いてもらったり、あるいは原因となった相手が悪いのだ、あの人がいなくなればいいことだ、というような考へに逃げてしまうのも、一時的には苦しさを軽減してくれるかもしれません。そして、これらのやり方は即効性があるとも言えるわけで、胃酸を中和する薬を使うのに似ています。
しかし、やはり胃酸の発生そのものを抑えることができれば、より効果的だと言えます。
そこで、苦しさがなぜ起こるのか、その発生源である心の中に抱えている受容体を研究してみましょう。
たしかに、そのような言葉を言われなければ、心は穏やかだったかもしれませんが、言葉を打ち込まれると、それを受容体が受け止めてしまうということがなければ、苦しむこともないわけです。
やはり私たちの心の側にも、苦しみを生み出す受容体はすでに存在しているのです。
同じ言葉を言われても、平気で何もなかったようにしていられる人もいれば、たちまち落ち込んでしまう人もいるという具合に、心の中の受容体はその人その人で異なるものと考えられます。
なぜ自分を苦しめてしまうような受容体を、私たちは抱えているのでしょう?
それが苦しみばかり創りだすものだとしたら、その受容体は取り除いたほうがいいものなのでしょうか?
たとえば、「どんな時も人には親切にしなければならない」という考えを強く焼き付けている人がいるとしましょう。
この信念に反することをすれば、この人は悪いことをした気になり、自分を責めることになります。
おそらくこの人は、困った状態にある人を見れば、人よりもセンサーがより鋭く働きます。
いつものように、「私に何かお手伝いできますか?」と声をかけます。
しかし、中にはこのような申し出に反発を感じる人もいるでしょう。その人はその人で親切を素直に受け入れることに抵抗や嫌悪感を抱いているのかもしれません。
「放っておいてくれます?!あなたには関係ないでしょう?」といきなり敵意を示されることになるかもしれません。
さてこの人の場合、親切にしてあげることは、いつどんな人でも喜んでくれることだと信じていただけにショックが隠せません。「なんという人だ、なにがあろうと、もう二度と声をかけないぞ」と呪いの言葉を言いたくなります。
この事件が、その相手だけが特殊なのだ、変人なのだ、で終わってしまえばまだいいですが、傷ついたあまり「もう二度と人に親切に使用などと思わないぞ!人は人、私は私、それでいいじゃないか」というように極端に傾いてしまうと、また問題です。
せっかくの困っている人を察してあげるセンサーを持った、その人の受容体を使わなくしてしまうのはもったいないことです。
このように、人を傷つけたり苦しさを生み出す受容体は、それ自体は良いものでも悪いものでもありません。
その人の特性を活かし、生き生きと自分を表現し続けるには、傷つくことを恐れずに、起こったことをありのままに直視し、受け入れることからはじめなければなりません。
みう一度最初に戻ると、「どんな時も人には親切にしなければならない」という信念は、全て正しいといえるでしょうか?
まず「どんな時も」通用することなど、めったにないでしょう。このような言葉は人を混乱させるもとになります。
それから「親切に」とは「しなければならない」ことでしょうか?
相手に何かをしてあげたくなるのは、自分自身も満たされていて、おもわず相手にもおすそ分けしてあげたくなる時です。これが自然に出てくる親切ではないでしょうか?
もちろん相手が困っているようなら、助けが喜ばれることはあるでしょう。
しかし、自分も困ったことを抱えているなら、まずは自分の問題を解決するのが先かもしれません。
それに、助けることで喜ばれたことに味をしめて、親切の押し売りになっても別の問題が生じます。
あるいは、その人自身が自分の力で解決すべきことに対して、過剰にあなたがかわりをやってしまうのも問題があります。
このように、一見非の打ち所がないような信念も、それを固定化したルールにしてしまうと問題が生じてしまうのです。
自分の行為がもとで自分が苦しく感じる結果が生まれた時は、心をオープンにして何が問題だったのかを考えてみましょう。そして、その裏に隠れていた固定化した思い込みに疑問を投げかけてみるのです。
そして自分が今まで育ててきた受容体も、時と場合でなんでも受け取ってはいけないことがあるとわかれば、問題が起きる前にブロックする方法も見つかるでしょう。
存在するものは、好きでも嫌いでも受け入れなければなりません。苦しんでいる自分に、さらに嫌な発見を強いることが、一時的には必要になるかもしれません。
しかしそれを嫌がって、当面の痛みを緩和することばかりに頼っていては、いつまでも問題は解決しないのです。
私たちが抱えている、様々な心の受容体は、決して万能ではありません。
なぜなら、今までの経験に対処するために編み出してきた、経験不足で行き当たりばったりのものも多いからです。
そのことを充分に認識すれば、ひとつの思い込みに固執することは決して得策ではないことがわかるでしょう。
私たちの出会いとは、一つ一つが今までとは異なる、一期一会の出会いです。
面倒なようでも、いつも新たな気持で、起きていることを今この場で見なくてはならないのです。
その面倒さこそが、多様に変化し続けるいきいきしたライブを経験させてくれます。
混沌とした世界も、見方しだいでは、それだけ多様な選択を、あなたに提供してくれているとも言えるのです。
今まで見たこともないほどの困った人に出会ったなら、あなたの今までの経験を元にして計算し、つじつまを合わせようなどと思わずに、まったく新しい世界をあなたに経験させてくれるチャンスと捉えましょう。
テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体