
人は苦痛を抱えていることで自分のバランスを取ろうとしている場合があります。
言い換えれば、何も気になることがなくなった状態を想像できない、どうしていいのかわからなくなるのです。
いつも気になる状況がるのが普通だと思いたがります。そして、そういうふうに考えるなら、何らかの問題が自分の周りにあるのはすぐに見つかるでしょう。
何も問題がない状態ではどうしていいのかわからないのです。
ですが、いつも何かの困難や課題を抱えていなくても、そのまま起こることに対処していける自分を持つことも可能です。
いつも先手を打って、何かの対策を講じているというのは、一見まともでほめられるべき姿勢のようにも見えますが、そこにはすべて自分で制御していないと安心できない心理が隠れているのです。
しかし、すべてのことに手を売っておくというのは、実際にはできない現実離れした考えです。
それに慣れてきた人には、とんでもなく無防備で、いい加減に見えるかもしれませんが、起きてくることにしたがって対処していくという受身の姿勢も必要です。
というよりも、すべてのことに対処していると思っているのは、思い上がりでしかないことを知っておくということです。
たしかに、明らかに準備しておくことが役に立つと思える状況も有ります。しかしそれと同時に、そこから漏れ落ちたことも同じように起きていることを無視しないことです。
起きてくることは、あなたにとっていいことも多いでしょうが、不都合なことも、「あなたの思いには関係なく」起こりうることも認めなければなりません。
全てに対処しようとしないで、力を抜いて、流れに任せて、予想しない出来事も楽しんでみましょう。
そのような姿勢こそ公平なものごとの見方を可能にしてくれるのです。
すべてのことを解決できる人にならなくてもいいのです。
それよりも、現実にあなたの予想しないことも起きている中で、その流れを楽しむ余裕を持ちましょう。
そうすれば、苦痛に感じていたことも、違って見えてくるでしょう。
以下の文章は、以前に書いたものですが、上記の内容を踏まえて読めば、また違った意味が見えてこないでしょうか?
苦痛も楽しみも、同じように起きてくることの解釈のしかたにすぎないとしたら?
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苦痛を抱える自分はほんものだろうか?
困難な状況にあるとき、人はさまざまな回避策を試みます。
たとえば、困難の原因を、誰か他人のせいだと考えて、その人を恨んだり攻撃することで、現在の自分の問題から目をそらそうと考えます。
またそれが出来ない場合には、自分自身を苦しめることで、少なくとも自分はいま罰を受けているのだから、と考えてそれを免罪符にしようと考える人もいるでしょう。
このようないいわけ、特に後者のやり方に慣れてしまうと、自分を苦しい状態にしていることが習慣になり、ちょっとしたきっかけで苦痛の中に浸ってしまう状態に入り込んでしまいます。
もしこのような状態を繰り返していると感じるなら、苦痛を感じて何かを回避しようとしている自分がいないかをチェックしてみるといいでしょう。
それは誰もが避けようのない苦痛なのか、それとも自分がわざわざ作り出してしまっている苦痛なのか区別するのです。
そして、それが後者であれば抜け出す方法がないか考えてみることです。
中には、そのようなやり方に慣れきってしまって、自分から苦痛や問題を取り去ってしまうと空虚に感じてしまい、再び元の苦痛を感じる状態に戻りたくなってしまう人もいます。
しかし、たとえそうだとしても、粘り強くその習慣から抜けようと試みれば、その状態が本来自分が望んでいる状態ではないということに気づけるようになるはずです。
ちょうど、大人になってから、子どもの頃の悩みがなんでもなく思い出されるように、あの頃いつも苦しんでいたのは何だったんだろうと思えるようになるでしょう。
苦痛を感じている自分に気づいたら、以下の項目をチェックして何か役立てないかを考えて見て下さい。
人によって、とりやすい態度は違うものですが、何か思い当たるところはないでしょうか。
◆自分は苦しんでいる。それは本物の人生を生きているからだ。
人生は辛く、苦痛に満ちていないと本物だと感じられないというのは、
刺激的な出来事こそが生きる実感だと感じられるという、感覚の麻痺を起こしているのかもしれません。
ほんとうに、いつまでもそうしていたいのですか?
穏やかでいて、しかもほんものの人生というのは、あり得ないのでしょうか?
◆自分が苦しんでいるのは、まわりには自分を苦しめる敵がいっぱいいるからだ。
これも、前述の他の人を悪人に仕立てることで、状況をありのままに見ようとしないやり方かもしれません。
敵がいるから仕方ないのではなく、自分が敵を作り出して、自分の問題と向き合うことを避けている可能性はないでしょうか。
◆自分は苦しんでいるのだから、他の人よりも重要な人間なのだ。
「心穏やかでいる他の人と違って、自分のこの惨めさをみてくれ。」と言っていませんか?
同情を受けたり、自分を特別扱いして欲しいという逃げ口上になっていないでしょうか。
◆自分は苦しんでいるのだから、何も気にしない他の人よりも、それだけ責任感が強いのだ。
責任感とは、別に自分を苦しめることではないでしょう。
それに自分を責めて苦しめるのは、自分自身への責任を放棄していることにならないでしょうか。
◆自分は苦しんでいるのだから、自分の方が正しいのだ。
こんな理由は成り立ちませんね。
正しさとは何かが本当には判断できずに、無理矢理主張しているだけでしょう。
「正しさ」という言葉で、何にとらわれているのかを考えて見たらどうでしょうか。
◆自分は苦しんでいるのだから、それだけ他の人より思いやりがある人間なんだ。
そんなことがいえるのでしょうか?
むしろ、自分自身を苦しめるという、自分への思いやりのなさを忘れていないでしょうか。
自分への思いやりを果たせない人は、なかなか他人への思いやりも持つ余裕が持てないのではないでしょうか。
最後にもうひとつ、
◆自分は苦しさを終わらせたいと本当に願っているんだ。だからこんなに苦しんでいるんだ。
本当に苦しさを終わらせたいと思っているかどうか、もう一度考え直してみましょう。
実は、苦痛がなくなってしまうのを恐れている自分がそこにいないでしょうか?
おなじみの苦痛を抱えていることでバランスを保っている今までのやり方をやめて、苦痛なしでもやっていけないかどうか試して見ましょう。
テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体