捜索するなら、苦しみます。
何も捜さなければ、至福です。
- 達磨、達磨の禅指導
出典:gardenofthefareast
To seek is to suffer.
To seek nothing is bliss.
- Bodhidharma, The Zen Teaching of Bodhidharma
出典:gardenofthefareast
短い言葉ですが、非常に深い意味を持ちます。
私たちは、常に何かを探し求めなければ、取り残されダメ人間になってしまうかのように思い込んでいます。
それは、子どもの頃から、努力しない人間はだめになると教え込まれるからです。
努力するとは?
このような抽象的な表現では、いくらでも解釈できてしまいます。
学校の成績を上げることが努力すること?
苦手なことを、克服しようと苦しむのが、努力すること?
こんなふうに考えてばかりいると、私たちはいつのまにか、「なんにせよ、今のままでいることは良くないのだ」と思うようになってしまいます。
やがて努力するとは、楽になっていてはいけない、気を休めていてはいけない、という方向に考えてしまう様になります。
このような体験が重なると、「今なんにもしないでボーとしていた」と気がついただけで、こんなことではダメだと思うようになります。
かくして、われわれは、何も探さず、空っぽのままでいることとは、正反対の方向に訓練されてしまうのです。
このままではいけないと想い出す人は、座禅を組むなどの体験をしようと考えます。
何も考えない、何も求めないでいる時間を、無理にでも作り出そうとするのです。
根本に立ち返れば、「常に努力しなければ、常に考え、探し求めていなければ・・・」という訓練さえして来なければ、私たちは、空っぽのままでいることも、もともと容易にできたはずだと想い出すでしょう。
からっぽの状態でいることが、今の私たちにとって、とても難しくなっていることはわかります。
しかし、もともとはそんなことは容易だったのかもしれない、いや、そうだったはずなのです。
残念ながら、現代人にとっては、訓練が必要かもしれません。
しかし、空っぽのままいることは、難しく考えなければ自然にできるようになるはずです。
しかし、もう一つ障壁があるのかもしれません。
それは、「何も捜さなければ、至福です。」とは言われても、そんなことをしていては、ダメ人間になってしまうのではないかという不安です。
「常に何かを探し求めているから、進歩があるのだ、今の自分があるのだ。
何も探し求めなければ、ダメに成ってしまうに決まっている。」
そう信じ込んでいるので、怖くて考えずには、いられないのです。
考えて考えて、努力を欠かさない人間にならないと、どうなってしまうかわからないと思って、怖がっているのです。
大抵の人は、やりたい人はやればいい、私はそんな怖いことは出来ないと思っています。
あるいは、こんな考えは危険だと思っているのかもしれません。
あなたのこんな恐怖が、わかったふりをしながら、自分では実行しようとしない理由なのです。
だからあなたは、常に苦しみ、至福などとは縁遠い存在に甘んじているのでしょう。
勇気が必要かもしれません。怖いかもしれません。
ですが、やってみない人には、いつまでもわからないままなのです。