自分について抱くイメージは、軽蔑すべき行動をするたびに破壊されてゆきます。
どうすればよいでしょうか。「わたしは良い人間で・・・」の裏面に書いてあるのは、「もしそうでないときは、わたしは罪悪感を抱くだろう」という契約文なのです。罪悪感を抱くことで、自分はまだよい人間だと感じられるのです。
だって、悪いことをして「悪い」と思うのは、よい人間でしょうか、悪い人間でしょうか。もちろんよい人間です。悪い人間は、悪いことを楽しんでします。悪い人間は、悪いことをすればよい気分になるはずです。
自分がよい人間だと証明するために、罪悪感で自分を痛めつけるのです。そうすれば、自分がこれこれのすばらしい条件をすべて満たしているというあのイメージを守ることができます。罪悪感を感じるとき、実はこう言っているのです。「今度はこんなことをしてしまったが、二度とはしないぞ。このことでわたしはこんなに苦しんいるではないか。こんないやな思いは二度としたくない。だから、十字を切って誓ってもいいが、二度とこんなことはしない」
罪悪感のおかげで、われわれは、自分自身についての素朴な思い込みが真実であると思い続けられるのです。しかしやったことからすれば、そんな思い込みが真実であるはずはないのですがね。罪悪感のおかげで、自分自身についての不正確なイメージ、行動とかけはなれたイメージを守り続けられるのです。
じゃ、われわれはよい人間ではないのでしょうか。いいえ、そうではありません。部分的にはそれも真実です。誤りは「・・・よい人間だから云々」のところです。よい人間は、いつもよいことだけをし続けているでしょうか。そんなはずはありません。
よい人間だってときどき、自分の身体に気をつけるのを忘れることもあるでしょう。そうです。よい人間だって、ときには自分の心の声に耳を傾けるのを忘れるでしょう。そうです。よい人間だって、ときには意志が萎えることもあるでしょう。そのとおりです。よい人間は、いつも体にいいものばかりを食べるでしょうか。とんでもない!いつも見かけに気を配っているでしょうか。まさか。いつも計画を守り、目標を達成しているでしょうか。ナンセンスです。いつも他人にとってのよいお手本になっているでしょうか。とんでもありません。いつも愛する者たちに心遣いをしているでしょうか。そうでないこともあります。
真実は、よい人間はこういうよいことをしますが、時にはしないこともあるということです。もうひとつ真実を言えば、あなたはよい人間なのです。いろいろよいことをします。時にしないこともあります。それだからといって、あなたはよい人間でなくなるわけではありません。そうです。それはあなたが人園であるという証明にすぎません。
罪悪感は、自分について抱くあやまったイメージ、やましさに裏打ちされたイメージを守るだけでなく、まちがった行為をまた繰り返させます。「罪悪」に対する代価を払うたびに、またそれを犯す自由を得ます。代価を払うつもりがある限り、またやってしまうのです。代価とは?またまた罪悪感です。「あのケーキが欲しくて死にそう。あれを食べたら、二時間の罪悪感にさいなまれるわ。そうだ、ちょっとだけ食べて、罪悪感を一時間ですまそう」
罪を犯すにさきだって、自分自身に対するこういう裏取引をしているわけです。
ですから、この文明においては一般に認められていることですが、罪悪感の結果、(A)みじめな気分になり、(B)思考や感情や身体に破壊的な作用をもたらし、(C)「よい人」についての不正確なイメージを保ち、(D)あることをしながら、自分をまったく逆の人間と信じ込み、(E)自分にとって一番利益になるとは限らないことをし続けることになります。
あなたの非生産的な行為について考えてごらんなさい。罪悪感になんの得がありますか。あなたの罪悪感が、一般的に罪悪感と呼ばれるもの(事後の、重苦しい感情をともなった自己非難感情)をさしているのでしたら、そんなものには一文の得もありません。何にもなりません。
でも、よくないはずの行為に手を染める前に、すでに罪悪感の予感がありますね。こちらはずっとおだやかな感情です。こちらは害はありません。頭にも体にも感情にもやさしいものです。罪悪感の予感は、われわれの味方です。車の中のライトがつくことで、ガソリン切れがわかるように、罪悪感の予感は、いまにわれわれが、むなしい、苦痛の多い、害をもたらすような罪悪感を引き起こすぞ、と告げてくれます。
ではこの「よくない」罪悪感のほうはどうしたらいいでしょう。答えは次の魔法の言葉の中にあります。「イメージか行動かどちらかを変えなさい」
~「ポジティブ宣言」 ジョン・ロジャー、ピーター・マクウイリアムズ VOICE
~続く~