人はわがままなもの
前回の「発想を変えてみよう」から「他人はわがままなものだと受け入れてみる。」ということを取り上げてみましょう。
人はわがままなものであるのは、人間性というものがそのようにできているということです。
「わがまま」という表現に抵抗があれば、「人はだれでも自己関心に基づいて反応し行動する」と言い換えてもいいでしょう。
このことは、逆の方向から考えたほうがわかりやすいかもしれません。
私たちは、結果的にこれとは逆の常識を持ちやすくなっています。
例えば黄金律と呼ばれるイエスの言葉があります。
「何事も人からしてほしいと望むことは,人にもそのとおりにせよ」
まさにそのとおりだと思います。
この言葉自体には問題はありません。
しかし、「自分が期待することを相手にしてあげなさい」と信じて頑張りだすうちに、私たちはそれを相手にも期待するようになっていきます。(心理学で言うところの投射が働く)
つまり、私の目の前にいるこの人も、「私が期待することをしてくれるべきだ」と考えてしまうのです。
はっきり期待することを言葉で頼むか、ただ自分の期待をにおわせるか、方法はわかりませんが、それで相手が私の期待に答えてくれること望んでしまうのです。
もしそれがかなわないと、「私は普段から相手の期待に答えようと努力している。なのにこの人はどうして私の期待には答えてくれないのか?なんて恩知らずな人なの!」と思ってしまうのです。
この誤解と困惑が、人間関係のもっとも多くみられる悩みの一つです。
そこには投射によって生じた飛躍があります。
私が黄金率に従うことはかまいません。
しかしその後、相手も同じことを思っているはずだ⇒そうあるべきである⇒そうでない人は間違っている、というように飛躍させてはならないのです。
そこでもとに戻って「他人はわがままなものだと受け入れてみる」ことからスタートしたらどうなるでしょう。
相手が自分の期待に答えてくれなくても、その人の自己関心に基づいて行動しているのだから、そういうこともあるだろうと思うことが出来ます。
そして、私たちは、相手によっては、素直にその考えを採用することもあるのです。
ところが、私たちが間違えてしまい混乱する原因は、相手によって黄金率を期待したり、しなかったりすることから生じるのです。
つまり、いったん自分が頼りにしたい親しい人だと思ってしまうと、いつでも黄金率を期待し、それがかなわないと不満を持ってしまう。それが見知らぬ人であれば、本来の期待できない人間性を見ても平気でいられる。
こんな使い分けを無意識にしてしまうのです。
間違いの原因は、「この人は期待できる人か、出来ない人か?」という判断を最初に持ってきてしまうところにあるのです。
ですから、そうではなく「相手が誰であろうと、人は自己関心に基づいて行動するもの」であると最初から思っておけばいいのです。
「人はわがままなもの」であることを受け入れると、もうひとつおまけとして、自分自身にも過剰な期待を抱かなくなります。
たとえば「私は、あの時あの人に、こうしてあげるべきだったのに・・・」と思いつめてしまうことがなくなります。
これもまた人間関係の悩みの典型的なものです。
先ほどとは逆に、過剰な期待が内側に向けられた時の悩みなのです。
どちらの方向に向かうにせよ、現実離れした期待を持ってしまうことが、自分を悩ませることになります。
最初から、ありのままの人間性をとらえておくこと、それが「人はわがままなもの」という認識なのです。
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